わたしたちの闘いは終わったわけではありません。
一六年に及ぶ裁判闘争は、長い年月でしたが、わたしたちの主張は退けられ、粉砕されました。
しかし、それにもかかわらず闘いは続行され、追撃の手をやすめはしないでしょう。
なぜでしょうか。それは地上の法廷を超えて、世界史の法廷、真理の法廷に立つことを期待しているからです。
細菌を「物理的封じ込め」という安全キャビネットに閉じ込め実験をしているから、安全は疑う余地もないし、「安全でない」という主張を杞憂(きゆう)というのでないか、と言う人々もいます。なんという無知か、傲慢か、と思わざるを得ません。人間が作った安全の枠がいかに脆弱なものなのか、人が知らないはずはないからです。
この大自然のメカニズムがどれだけ解明されていると考えているのでしょうか。
科学万能の思考がどれだけむなしいものか、多くの人は知っているはずです。
地震のメカニズムにしてもどれだけ分かっているというのでしょうか。安全と思っていた断層が突然亀裂を生じ、地上に打ち建てた建築物を粉砕していくのを多くの人は知っています。偽りの預言者は、「安全な、安全だ」と叫びます、しかし真の預言者はたとえ憎まれても、嫌がられても、真実を語るのです。人が言うような安全はどこにもないのです。
だからこそ、文教地区、住宅地区、病院・障害者施設地区の人口密集地に打ち建てた細菌の研究施設の立地がいかに不適切であるかを訴えるのです。
宇宙ロケットの打ち上げ基地をどこにするのか、おそらく人口密集地を誰も選定はしないでしょう。過疎の島や人里離れた場所を考えるでありましょう。原子力発電所を建設するにしても、それなりの立地を考えるでしょう。なのに、国立感染症研究所の立地は十分に考えて決定したものとは思われません。この細菌の研究所の立地条件は、最悪だからです。
テロに対する防衛、感染事故に対する防衛、この両面からみても十分な対応があるとは決して思われません。わたしたちの主張は、この高裁の審理の際に主張した陳述記録を見ても明らかです。裁判所は、この案件を「科学裁判」と位置づけていながら、科学裁判らしからぬ科学的根拠を欠いた判決をいたしました。この時代、危険はますます増えていきます。人間を取り巻く地球環境が複雑化し、原因と結果が明確に予測することすら困難となっています。顕在化しないうちにいかに予防の手を打つのか。これが「予防措置原則」と呼ぶものです。
すべての人に「安心」を与えることは科学の範疇ではないかもしれません。しかし、「安全」は環境に対する物理的な措置であり、科学的対処の問題でありましょう。ゆえに、やれることはしなければならないわけです。感染症研究所と、同じ下水管を使用している住民にとって、いつ滅菌されていない細菌が流れてくるか不安であることは言うまでもありません。安全というなら、それを実証しなければならないからです。しかもすべての汚水を滅菌しているわけではありません。よほどの危険な細菌を扱った場合だけです。施設から排出する空気にしても安全ではありません。真実、安全ならば、内部に還流してもいいはずです。さらに、事前の疫学調査、近隣に住む人々、勤務する人々で疾患した人々の病因調査をしているのか、といえば皆無といえます。当然、保障などありません。
したがって、未来の予測が不透明である限り、安全サイドに立って物事は考えるというのが大事なのです。人権には最大限配慮しつつも、人間と環境への危害を避けることを目的に、わたしたちはバイトハザード(生物災害)からの回避を志向していく住民サイドの理念を構築させていきたいと思います。
いまや全国津々浦々で細菌実験施設が建設されようとしています。この危険性を予見し、住民サイドの視点に立って闘った高裁以降の裁判の記録を提供します。安全、安心の街づくりに、何らかの参考となれば幸いです。
二〇〇九年 春 国立感染症研究所の安全性を考える会