各界からのメッセージ

支援する会を代表して
予研裁判を支援する会代表    日下 力

実に一六年という長い期間にわたって裁判を闘ってこられた皆様に、あらためてここに敬意を表させていただきます。最終的な勝利にいたらなかったとはいえ、高裁の判決文に、感染研への警告が明記され、後世に残されたことは、皆様の努力が決して無に帰すものではなかったことを、雄弁にものがたっております。
私たちの支援する会が、どれだけお手伝いできたか、おぼつかなくはありますが、提訴とほぼ同時に立ち上げられたこの会は、まさに裁判の会と共同歩調をとってまいりました。一九九七年四月に発行された『予研裁判を支援する会・七年の軌跡』を紐解いて見ますと、お亡くなりになられた芝田進午先生と、早稲田大学法学部教授でいらっしゃった浦田賢治先生との話し合いのなかから、本会が発足した経緯が分かります。そして、予研の戸山への移転問題が起こった当時、文学部の教務担当教務主任をしておられ、当初から反対の立場を表明されていた富永厚先生がそこに加わり、会は実働を開始したのでした。

会員は、早稲田大学文学部の教員を主に、他箇所の教職員の方々や、一般の方々、早稲田大学の教員組合・職員組合等の団体で構成され、裁判の経過を伝える会報「はこねやま」を発行し、会費の余剰金を、不十分ながら、裁判の会への支援金とさせていただきました。バイオ時代の人権擁護基金も創設し、その利息を運動に活用する予定でしたが、景気の落ち込みで利息活用の目的は果たせなかったものの、協力者の方に預託金を寄付金に振り替えていただき、折々に必要となった出費をそこからまかなうことができました。「はこねやま」発送の際には、裁判の会の住民の方々にもお手伝いいただきましたが、中にはすでに物故者になられた方もおられるよし、時の流れを感じさせられます。

初代代表は、文学部教授で和歌文学が専門の故藤平春男先生(一九八九~一九九二)、二代目がやはり文学部教授のドイツ文学の山田広明先生(~一九九七)、三代目が富永厚先生(~一九九八)、四代目が浦田賢治先生(~二〇〇一)と続き、今、非力の身ながら、私がつとめている次第です。その間、常任世話人としていろいろな方々に、ご協力をいただきました。まず、発足当初から、会を引っ張ってくださった芝田先生の教え子でいらっしゃる浅野富美枝さん。現在は、仙台に大学教員の職を得て、そちらでご活躍中です。住民の方で、林世志江さん。足のお悪いにもかかわらず、一生懸命ご参加くださった姿が思い出されます。会計をずっと担当してくださった理工学部職員の羽田野新平さん。実務的な面で、すっかりお世話になりました。また、バイオ基金の管理は、文学部教授で東洋史専門の近藤一成先生がしてくださいました。途中から参加してくださった方では、浦田先生の教え子で、大学院生だった森克己さん。九州に大学の職を得て、赴任されました。橘英實さんにも、一時、ご協力いただきました。

常任世話人会の取りまとめ役は、当初、私がいたしておりましたが、その後、文学部教授で社会学専門の浦田正樹先生がお引き受けくださり、貴重な記録『七年の軌跡』を刊行されました。現在は、藤平先生の弟子でいらっしゃる文学部教授の兼築信行先生が担当してくださっております。
裁判の終結というひとつの節目を迎え、私たちの組織も、去る七月、解散することを決定いたしました。残余金が若干ございますが、それは、芝田先生のご著書を英訳して世界に発信するためと、『七年の軌跡』の続巻を刊行するための資金に当てることとなっております。いずれも、将来に向けての「投資」と言えるでしょう。

感染研の問題は、実はこれからが大切だと思っております。
巨大地震が遠からず起こることの予測されている現在、感染研には、住民や大学と一緒になって、万が一のための対策を考えておいてもらわなければなりません。どういう病原体が培養されていて、感染した場合、どういう初期症状が現れ、どう対処したらよいのか、それすら十分に分かっていないのが現状です。こうした初歩的な事柄を知ることから、協議は始められなければならないでしょう。多くの学生を預かっている大学としても、感染研の存在に無自覚であることは許されないはずです。文学部は、ことあるごとに大学当局にその自覚を促してまいりましたが、それが今後、実となるよう、一教員として願っております。
最後に、皆様方のご健勝を念じ、これからも続けられるでありましょう。活動への、できる限りのご協力をお約束して、予研裁判を支援する会の代表としてのご挨拶とさせていただきます。

 

ともに新たな出発を

バイオハザード予防市民センター代表幹事   本庄重男

まず始めに、一六年余にわたる予研=感染研裁判の会の皆さまのご健闘を讃え、心から敬意を表させて頂きます。
この市民的な裁判の闘いは、感染研から重大なバイオハザードが現実に発生することを防ぐための闘いとして展開されて来ました。それは、いわば、「予防原則」を社会制度として確立することを求める市民の闘いでありました。平和で安全な生活を求める市民として当然の権利に基づく闘いだと言えましょう。国家権力の一翼である裁判所は、残念ながら私たち市民の主張や期待を踏みにじる判決をくだしました。市民に対立する厚労省や感染研を含む国家機関の傲慢な姿を見せつける判決でした。
しかし、よくよく考えてみると、一九九二年九月、戸山に移転を強行した感染研が、その後一三年余にわたり幾つかの記録すべき事故を起こしたとは言え、人命に直接被害を及ぼすような重大な事故を起こさずに過ごしてきた背景には、「裁判」による市民的監視の運動があったので感染研当局や職員が多かれ少なかれ緊張し事故防止に心がけていたことがあると言えます。「裁判」が終了した現在、感染研当局や職員の緊張感や事故防止の努力が低下し、重大事故が発生したり、その事故を隠蔽したりする傾向の強まる恐れは十分予想できます。ですから、私たち市民は、感染研を監視する活動を引き続き強化して行く必要があります。
この感染研監視の市民運動は、最終的には、事故が起きても周辺の環境や住民の健康に被害の及ぶことがほとんど無いと考えられるような土地に、感染研が移転するまで続けられねばならないと思います。実は、戸山からの感染研の移転は、市民にとってだけでなく、感染研の研究者にとっても是非必要なことです。なぜなら、感染研の研究業務が市民の怨嗟の的になるのではなく市民の賛同と支援を受けられるようになるためには、新しい土地に移り理想的な研究所を再建する以外に道はないと考えられるからです。ですから今後とも私たちは、感染研監視の運動を進めると同時に、感染研の研究者が市民の声に十分耳を傾け、新しい安全な土地に移転する闘いを起こすよう強く求めて行こうではありませんか。
私たちバイオハザード予防市民センターは、今後とも「予研=感染研裁判の会」としっかり手を組んで、市民的理想の社会・環境・健康を求める道を歩んで行きたいと決意しております。力を合わせて頑張りましょう。

新井秀雄さんと歩んで

新井秀雄さんを支える会・事務局長  本田孝義

一九八八年の裁判提訴から数えましても、一六年もの長きに亘り闘ってこられた皆様方にあらためて敬意を表します。
公の場であることは重々承知しておりますが、まずは個人的なことから書かせていただくことをお許し下さい。

私は、一九九二年に大学を卒業し、その前後から新宿区戸山に通うようになりました。予研の問題について故芝田進午先生に直接話を伺い、バイオハザードの問題がいかに危険であるのか認識していきました。映像制作を仕事としましたので、この問題をなんとか映像で伝えたいと思いつつ、新鮮な切り口が見つけられず、時間ばかりが過ぎました。ある日、戸山ハイツでの集会で、新井秀雄さんにお会いしました。予研内部からも危険性を指摘している科学者がいる、という話は芝田先生からお聞きしていましたが、ご本人にお会いしたのはこの時が初めてだったように思います。しばらくしてから、新井さんを中心にして予研=感染研の問題を描くドキュメンタリー映画の制作を始めました。

予研=感染研裁判は、とても多くの方が原告になられたり、早稲田大学を中心に支援する会が生まれたことも大きな特色でした。同時に、本庄重男名誉所員、新井秀雄主任研究官(当時)の両氏が感染研関係者でありながら公然と地域住民に協力してきたことも環境問題、科学論争、人権闘争、裁判史上画期的なことであったことを忘れるわけにはいきません。特に、両氏は証人としても法廷に立たれ、とかくなかなかうかがい知ることが難しい予研内部の様子を語られ、住民の方々の不安が決して杞憂ではないことを証明されました。また、予研=感染研が新宿区戸山に移転してからは、毎朝座り込みを続ける住民の方々と新井さんが挨拶をする姿は印象深いものがありました。

私が制作した映画はなんとか完成し、二〇〇〇年初夏、映画館で公開することが出来、予研=感染研裁判の一審の結審に間に合うことが出来ました。その後、芝田先生のご子息である芝田暁さんからのご提案もあり、新井秀雄さんの著作「科学者として」を幻冬舎から出版することとなりました。新井さんご自身も、編集を少しだけお手伝いした私も、芝田さんも、少しでも裁判の判決にいい影響があることを望んでおりました。しかしながら、感染研当局は、二〇〇一年一月四日、あろうことか新井秀雄さんに対して厳重注意処分をくだしました。すでにご自身が闘病生活をされていた芝田進午先生は、すぐさまこの処分を言論弾圧事件と捉え、抗議声明を発表されました。また、新井さんが裁判を提訴する準備を始めますと、新井さんの裁判を支援する組織を作ることを提起されました。こうして、慌しい中ではありましたが、新井秀雄さんを支える会が発足いたしました。

新井さんはご自身の処分撤回が主眼ではありつつも、ご自身の裁判の中で今一度、感染研の危険性を明らかにすることを望んでおられました。奇しくも、予研=感染研裁判の二審、三審と新井さんの裁判は並行して進んでいきました。予研=感染研裁判における国際査察において署名偽造事件をおこした倉田毅現感染研所長を法廷に呼び出し尋問することが出来ました。また、新井さんが裁判を提訴したのは、今後、他の所員が感染研のあり方に対して問題を指摘することが難しくなることを懸念したからでもあります。実際、私たちと率直に対話するような所員は今のところいませんが、感染研の現在の立地に疑問がある所員の方もおられると聞きます。新井さんに対する処分は、こういう方々と私たちが対話する回路を絶つ見せしめ的な意味もあるのでしょう。

予研=感染研裁判の会のニュースでは、新井さんの裁判の動向を常に掲載していただき、多数の方々が傍聴に来てくださったことをこの場を借りましてお礼申し上げます。
残念ながら、新井さんの裁判は一審で敗訴しました。しかし、新井さんは控訴しこれから新たな闘いが始まります。予研=感染研裁判の会が新たな出発を迎える中で、私たち新井秀雄さんを支える会も新井さんの裁判を支援し続けていきたいと思います。

予研=感染研裁判の会の方々が裁判を提訴した時には、故芝田進午先生がおっしゃっていた「バイオ時代の人権」という言葉は、世間ではなかなか浸透しづらかったかもしれません。しかしながら、世紀を超えたこの二一世紀になってみると、「バイオ時代の人権」という言葉の先見性と重みを多く市民と共有できる時代になったのではないでしょうか。今やっと時代は私たちに追いついたのです。

感染研裁判を振りかえって

予研=感染研訴訟弁護団    島田修一

1 戦後日本の経済至上主義がもたらした公害・環境破壊から国民の生命と健康を守る運動は全国各地でねばり強く取り組まれてきたが、被害を事前に予防して生命と健康を守る、賠償から予防へ、の国民要求はこの間新たな前進を勝ち取ってきた。大阪空港騒音訴訟の画期的な差止判決から二五年が経過した二〇〇〇年、尼崎公害裁判と名古屋南部公害裁判で大気汚染の最大原因である排ガスの差止判決が下された〇三年には名古屋高裁金沢支部のもんじゅ原発許可無効判決、福岡高裁の川辺川利水計画取消判決、〇四年も圏央道あきる野事業認定取消判決、有明海工事続行禁止仮処分決定等、公共事業に対する厳しい司法判断が続いた。 しかし、行政追随の判決も跡を絶たない。国の公共事業に対して行政の主張を追認する消極的な立場がそれであるが、本件の地裁と高裁も権力抑制という司法の機能を何ら果たさなかったのである。

2 地裁・高裁判決の最大の問題点は、判例の到達点を踏まえた安全審査を回避したことにある。北陸スモン判決は、医薬品の製造承認はその潜在的危険性のゆえに「世界最高の学問水準」に基づく審査が必要とした。原子炉の安全判断を争った伊方原発訴訟・もんじゅ訴訟では、最高裁と名古屋高裁は潜在的危険の顕在化防止義務を管理者に求めたうえ、安全審査の具体的基準を「最新の科学技術水準に照らして判定」すべきだとした。そうである以上、病原体施設も同じである。感染研は安全対策を十分に講じていることを立証する責任があり、その立証がなければ潜在的危険の顕在化防止義務は尽くされていないとして、周辺住民の生命・健康が侵害される危険があるとの結論が導かれるのである。

しかし、高裁は地裁が認めなかった感染研の潜在的危険性は認定したが、地裁同様、具体的危険性を全面否定した。フィルターからの漏出は僅かだから感染の危険はない、耐震基準に満たないところがあっても感染の具体的危険があるとはいえない、人為的ミスがあっても漏出するとはいえない、WHO指針に違反していても漏出する可能性があるとはいえない、ラットやマウスが敷地内で発見されたとしても漏出の可能性はない、施設トラブルがあるとしても漏出する危険はない、日本とヨーロッパで病原体の分類に差異があっても不合理ではない等々。

科学裁判でもっとも大事なことは、「異なる主張のうち一方を採用する場合には、明確かつ合理的な根拠が必要」である。安全か否かが激しい対立点となっている場合、「安全」を認定するには安全でないと指摘する者に対し、明確かつ合理的な根拠を示さなければならない。これが提示できなければ安全性は極めて疑わしいこととなる。しかし、判決は根拠も示さないまま「危険はない」としたのである。WHO指針は「最低限の基準」であるのにこれに違反しても危険はないと言い、バイオテクノロジーの有用性だけを評価して危険性を指摘する科学者の意見は無視である。これほどの非科学的な安全判断はないであろう。感染研の主張を鵜呑みした判決、生物災害の危険を直視せず行政に追随した判決、との批判の意味はここにある。

3 一八年に及んだこの裁判は、この国における生物災害の恐怖と現実的可能性を警告し、生命と環境という至高の価値を守り抜く人権闘争であった。敗訴はしたが裁判を通じた真実の解明、すなわち感染研には生物災害対策の学問的研究はなく、安全性の科学の思想も持ち合わせておらず、安全対策は極めて不十分であることが明らかとなった。大きな成果である。私たちの運動は大きな社会的支持を得ることができたのではないか。病原体施設の安全性に対する不安がこれまでになく高まった今日、この到達点を踏まえたさらなる運動の前進が求められている。